世界の透析事情4 ミャンマー連邦共和国

ミャンマー連邦共和国 

 

1.ミャンマー連邦共和国について

ミャンマー連邦共和国(通称ミャンマー)は、人口およそ5,100万人の多民族国家であり、1948年にイギリスから独立しました。日本からは、成田空港から1日1便、ヤンゴンへの直行便が就航しており所要時間は約7.5時間ほどです。入国の際にはVISAが必要であり、観光VISAであればインターネット経由で申請・入手ができます(シングルVISA 50 US$)。

ミャンマーは度々国名が変更されており、現在の日本における正式呼称はミャンマー連邦共和国(Republic of the Union of Myanmar)となっています。ちなみに旧称は、1948年の独立から1974年までビルマ連邦、1974年から1988年までビルマ連邦社会主義共和国、1988年クーデターにより政権を掌握した軍事政権は国名をビルマ連邦に戻しましたが、翌1989年ミャンマー連邦に改称しました。この際同時に首都もラングーンからヤンゴンに改称され、さらに2006年10月、首都をヤンゴンから同国中部の都市ネピドーへ変更しました。現在(2018年3月現在)の首都はネピドーです。2011年3月、新政府が発足し、それに伴い国名が現在のミャンマー連邦共和国に変更されました。ちなみに、これらの変更は英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じです。軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めておらず、名称変更を認めていないビルマ連邦国民連合政府のほか、米国、イギリス、オーストラリア政府などは現在でも「ビルマ」と呼んでおり、EUは両表記を併記しています。

ミャンマー(当時のビルマ)はかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域のひとつでしたが、1962年から1988年まで政治を掌握していたネ・ウィン軍事政権は、ビルマ式社会主義という国家基本要綱に基づき、国有企業主導の統制経済による開発を行ないました。この間、主要産業の企業・貿易は国家の管理下に置かれ、土地も国有化されました。このころからの鎖国的な経済体制により、最貧国と認定される程にビルマ経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差をつけられる結果となりました。1962年から他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていましたが、1988年にネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィン氏は失脚することになります。その後、民主化指導者アウンサンスーチー氏らは国民民主連盟を結党しましたが、アウンサンスーチー氏は選挙前の1989年に自宅軟禁され、以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになりました。ネ・ウィン氏失脚後は国民によるデモと軍事クーデターによる弾圧が繰り返され、結局その後も実質上の軍事政権が長らく継続しました。

2007年、テイン・セイン氏が新首相に就任し、前首相ソー・ウィン氏まで続いていた軍主導の政治体制の改革がテイン・セイン氏の下で開始され、民主化が一歩一歩計られるようになります。2011年、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕し、テイン・セイン氏がミャンマー大統領に就任しました。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会は解散し、権限が新政府に移譲されました。これにより軍政に終止符が打たれた形となりましたが、新政府は軍関係者が多数を占めており実質的な軍政支配が続くともみられていました。しかし、後に軟禁状態を解かれたアウンサンスーチー氏は政府との話し合いを持ち、2015年、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟が圧勝しました。国民民主連盟は党首のアウンサンスーチー氏の大統領就任を要求したものの、ミャンマー連邦共和国憲法の規定(外国籍の配偶者や子を持つ者は大統領になることはできない)と国軍の反対によってそれはかなわず、アウンサンスーチー氏側近のテイン・チョー氏を大統領候補に擁立し、2016年、正式にテイン・チョー氏が大統領に就任しました。ミャンマーで軍人以外の大統領が誕生するのは54年ぶりであり、半世紀余りに及んだ軍事統治が終結した瞬間でした。新政権ではアウンサンスーチー氏は外務大臣兼大統領府大臣、国家顧問に就任し、現在、実質的に政権の実権を掌握しています。ミャンマー1.jpg

写真@ 2013年ごろのミャンマー・ヤンゴン市の街並み。ここ数年で道路も整備され、かなり近代化してきました。

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写真A ミャンマーの観光地として有名なバガン遺跡はヤンゴンから飛行機で40分程度のところに位置しています。カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールと並び、世界三大仏教遺跡のひとつです。

2.ミャンマーの透析事情について

 ミャンマーでは透析治療および腎移植ともに行われてはいますが、健康保険制度が脆弱であり、全ての腎不全患者が透析治療の恩恵にあずかっているとは言い難い状況にあります。公的病院(国立病院や軍病院)は比較的安価に透析治療が受けられるため、現地のミャンマー人の多くは公的病院にて治療を行っています。近年、私立病院も多く建設され、外国人は主に私立病院にて透析治療を行っています。

日本人が旅行透析を受ける場合、保険システムや衛生面、混雑状況などを加味すると、公的病院で治療を受けるのはかなりハードルが高いです(お勧めしません…)。下記に示すような私立病院での透析治療をお勧めいたします。

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写真B ヤンゴン市内のとある公的病院。建物はかなり老朽化が進んでいます。ミャンマー4.jpg

写真C 急性腎不全から慢性腎不全に移行するケースも多く、急性腎不全を呈する主な原因は毒蛇による蛇咬傷です。ミャンマー人は靴を履く習慣がないため(皆さん、草履しか履きません)、農作業中などによく蛇に咬まれ、そのうち半数はその場で命を落とし、半数は抗毒血清と人工透析治療により救命されます。ミャンマーには多くの毒蛇が生息しており、特にキングコブラに咬まれた場合はまず救命できないので注意が必要です(都心部では蛇はそれほど出没しないため、雑木林や草むらに立ち入らない限り大丈夫です)。

写真左は病院にある毒蛇コレクション(咬まれた方が病院に持ち込んだもの)、写真右は実際に毒蛇に咬まれて入院中の患者。話を聞くと、今回で蛇に咬まれて生死を彷徨ったのは3回目とのことで、今回も奇跡的に命を取り留めることができました。退院後は農作業時に靴を履くよう勧めたが、歩きにくいとの理由から今後も草履を履くとのことでした…。

 

@)パラミ総合病院(Parami General Hospital)

 元々小児専門病院でしたが現在は総合病院として機能しており、外国人患者が多く受診しています。また、小児医療は国内最高水準を誇っています。当病院の透析施設は、日本に本社を置くグリーンホスピタルサプライ(株)が出資して運営しており、透析治療もミャンマー国内屈指の治療レベルを誇っています。透析センターの設計、スタッフ指導などは、グリーンホスピタルサプライ(株)所属の臨床工学技士が行っています。

 最上階には日本語デスクが設けられており、入院時なども日本語で対応可能です。また、医師は全員英語でのコミュニケーションが可能であり、看護スタッフの多くも英語にてコミュニケーションをとることが可能です。

 Parami General Hospitalでの透析治療の様子は、池間社長執筆の「2018年2月14日透析施設・視察レポート(https://透析検索.com/report/2018/02/14-123116.htm)」をご参照頂ければ幸いです。

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写真C パラミ総合病院(Parami General Hospital)の全景と入口

 

A)パンラインシロアム病院(Pun Hlaing Siloam Hospital)

 2005年に建てられた私立病院で、敷地内にゴルフ場や高所得者向けの家が立ち並ぶ広大なリゾート地の中に建てられている。外装・内装とも近代的で、多くの外国人が利用している病院であり、透析室も通常の透析室とVIP向けの半個室の透析室があります。

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写真 パンラインシロアム病院(Pun Hlaing Siloam Hospital)の入口と透析室の風景。写真下側はVIP専用入院部屋とVIP専用透析室(半個室)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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